赤木圭一郎について

赤木圭一郎  あかぎ けいいちろう
本名:赤塚親弘(あかつか・ちかひろ)

 

1939年 5月8日 東京・麻布笄町生まれ。
1944年 空襲激化のため湘南・片瀬海岸へ疎開。のちに葉山へ転居。
1945年 湘南学園小学校入学。のちに葉山小学校に転校。
1951年 栄光学園中学校入学。のちに、藤沢市鵠沼中学校に転校。
1955年 県立鎌倉高等学校入学。
1958年 4月 成城学園大学入学。
  8月1日 父の知人、日活・高木雅行プロデューサーの勧めで、1万人の中から第4期ニューフェイスとして日活入社。
  9月1日 『明日を賭ける男』(西河克己監督)封切。スクリーン初登場。
1959年 1月3日 『嵐を呼ぶ友情』(井上梅次監督)封切。“赤塚親弘”とタイトルにクレジット。
  3月18日 『群衆の中の太陽』(井上梅次監督)封切。“赤木圭一郎”とタイトルにクレジット。命名は井上梅次監督。
  4月29日 『拳銃0号』(山崎徳次郎監督)封切。“赤木圭一郎(新人)”とタイトルにクレジット。本格デビュー。
  9月8日 『素っ裸の年令』(鈴木清順監督)封切。初主演作品。
  9月27日 『清水の暴れん坊』(松尾昭典監督)封切。裕次郎と初共演。
1960年 石原裕次郎、小林旭、和田浩治と日活ダイヤモンドラインを結成。“第三の男”と呼ばれる。
  2月14日 『拳銃無頼帖・抜き射ちの竜』(野口博志監督)封切。 初のカラー主演作 。
この年の主演作品は11本。デビュー曲の主題歌『黒い霧の町』がヒット。
  4月 横浜・本牧・東京・笹塚の下宿を経て、東京・国領の日活・山崎辰夫撮影所長宅離れ家に転居。俳優・杉山俊夫と同居。
  7月9日 『霧笛が俺を呼んでいる』がトニー人気を決定づける。同名主題歌も大ヒット。
  8月 『平凡』9月号の読者投票映画スターベスト10男優の部で第6位に。
  12月 第5回日本映画制作者協会新人賞を受賞。
1961年 1月24日 石原裕次郎が、志賀高原ブナ平スキー場で右脚複雑骨折。急遽、企画中だった『激流に生きる男』の代役に決まる。
  2月11日 『紅の拳銃』(牛原陽一監督)封切。完成作品としては最後の出演作となる。
  2月14日 日活撮影所でゴーカートに試乗中、鉄扉に激突、東京・慈恵医大病院に緊急入院。
  2月21日 7時50分、頭蓋内出血のため死去。
  2月23日 東京・杉並の泉谷山大円寺にて葬儀。参列者4000人。